東京高等裁判所 昭和61年(行ケ)55号 判決
一 請求の原因一(特許庁における手続の経緯)、二(本願発明の要旨)及び三(審決の理由の要点)の事実は、当事者間に争いがない。
二 そこで、原告主張の審決の取消事由の存否について判断する。
1 いずれも成立に争いのない甲第二号証(本願発明の出願公告公報)及び甲第三号証、甲第四号証(いずれも手続補正書)によれば、本願発明は、歯科用セメントに使用する硬化液に関するものであつて(前記公報第一欄第二六行、第二七行)、歯科用接着材として、従来の酸化亜鉛ポリカルボキシレートセメントの粉末主成分を、歯科用ケイ酸塩セメントに置き替えた、いわゆるグラスアイオノマーセメントには、十分な物性と操作性を持つたものは未だ開発されていないこと、単にケイ酸塩セメントの粉末とポリアクリル酸又はアクリル酸共重合体の水溶液を組み合わせただけでは、練和後、早期にゴム状弾性を生じ、練和操作が困難であるばかりでなく、練和物は全く流動性に欠けるので、補填物を精密に歯牙に接着させることが不可能な上に、硬化完了までに長時間を要し、硬化したものの強度も極めて低いこと(同公報第二欄第一九行ないし第三四行)から、これらの欠点を解消するため、ポリアクリル酸またはアクリル酸共重合体四五~六〇%の水溶液に、クエン酸、リンゴ酸、マレイン酸、酒石酸、イタコン酸、アコニツト酸及びトリカルバリール酸から選ばれる一種又は二種以上の多塩基性カルボン酸を一一~一五重量%(総重量に占める割合)添加したことを特徴とする歯科用グラスアイオノマーセメント用硬化液を必須の構成要件とし、この硬化液にグラスアイオノマーセメント用粉末を組み合わせて使用することにしたものである(昭和五九年二月一日付け手続補正書第一頁第二行ないし第九行)と認めることができる。
そして、本願発明の硬化液を使用した場合の効果として、前掲甲第二ないし第四号証には、「本願発明で使用する多塩基性カルボン酸の中には二重結合を持つていないものもあるので、硬化液の主成分であるポリアクリル酸またはアクリル酸共重合体との共重合反応は期待できないが、本発明で使用する何れの多塩基性カルボン酸も程度の差はあるけれどもケイ酸セメントの粉末と反応性があるので、これらがセメント操作性の改善、硬化時間の短縮、強度の向上、耐水性の向上などの上で効果がある。」(前記公報第三欄第二八行ないし第三五行、昭和五九年二月一日付け手続補正書第一頁末行ないし第二頁第一行)、「強度の高い、かつ、天然歯に酷似した半透明の審美性にも優れたグラスアイオノマーセメントを得ることが出来る(中略)その優れた審美性を生かして前歯部充填材等にも応用することが出来る。」(第三欄第四行ないし第九行)との記載があり、加えて、多塩基性カルボン酸の添加量を本願発明が特定した範囲である一三%と一一%としたもの(実施例1及び2)の、硬化に要する時間及び二四時間後の破砕抗力の値が、右添加量を本願発明の範囲外である三%としたもの(比較例3)、無添加のもの(比較例1、2)及びJIST六六〇三の規格等と共に記載されていることが認められる。
前記認定事実によれば、本願発明は、ポリアクリル酸又はアクリル酸共重合体の水溶液とケイ酸塩セメントの粉末とを組み合わせただけでは、硬化に長時間を要し、かつ、硬化後の強度も極めて低いため実用には供し得ないグラスアイオノマーセメントを、その硬化時間を短縮し、かつ、硬化後のセメントの強度、なかんずく破砕抗力を向上させることを目的としたものであり、右目的を達成するために、多塩基性カルボン酸の中から前記特定の化合物を選択し、それらの一定量をポリアクリル酸又はアクリル酸共重合体の四五~六〇%の水溶液に添加して硬化液を構成したものであり、その結果、歯科用グラスアイオノマーセメントの硬化時間を短縮させると共に、破砕抗力を向上させるという作用効果を奏するものである。
2 一方、成立に争いのない甲第五号証(昭和四九年特許出願公開第一八一四二号公報)によれば、引用例には、歯科医術において使用するためのセメントに関して、「ポリ(カルボキシレート)セメントは、従来の物質より緩慢な硬化速度を有することおよびこの点における改善が望ましいことが実施において判明した。(中略)ポリ(カルボキシレート)セメントの硬化速度の改善がキレート化剤のこれへの添加により得られる。」(第三頁左下欄第一一行ないし第一七行)との記載があり、引用例記載の発明は、右知見に基づき、「一・〇五ないし二・〇〇の次に定義される相対粘度を有する水溶液ポリ(カルボン酸)、キレート化剤および、キレート化剤と水との存在においてこのポリ(カルボン酸)と反応して、急速に硬化してポリ(カルボキシレート)セメントを与えるセメント粉末、を含むポリ(カルボキシレート)セメントパツクを提供」(同頁左下欄第一八行ないし右下欄第五行)し、かつ、「キレート化剤と共に一・〇五ないし二・〇〇の次に定義される相対粘度を有する水溶性ポリ(カルボン酸)の水溶液を含むポリ(カルボキシレート)セメントの成分としての使用のためのセメント形成用液体を提供する」(同頁右下欄第一三行ないし第一七行)ものであつて、キレート化剤については、「ポリ(カルボン酸)の重量に基づいて約二〇重量%より多いキレート化剤を添加することは通常必要なく、そして好ましくはキレート化剤はポリ(カルボン酸)の重量に基づいて、たとえば、約五重量%のような、〇・〇一ないし一〇重量%の量で存在している。広範囲のキレート化剤、特に、エチレンジアミンテトラ酢酸、(中略)クエン酸、(中略)、酒石酸、(中略)を包含する」(第四頁右上欄第一四行ないし左下欄第一四行)、ポリ(カルボン酸)については、「ポリ(カルボン酸)がアクリル酸のホモ重合体または共重合体である」(第二頁左下欄第一四行、第一五行)、「好ましいポリ(カルボン酸)は、不飽和脂肪族カルボン酸、たとえば、アクリル酸、(中略)のホモ重合または共重合により造られるものである。」(第四頁右下欄第六行ないし第一三行)、セメント粉末については、「セメント粉末が金属酸化物粉末、溶融酸化物粉末、または酸化物ガラス粉末である」(第二頁左上欄第一二行、第一三行)と記載され、さらに、実施例として、キレート化剤に酒石酸を用いた例(実施例1)及びクエン酸を用いた例(実施例2)が、無添加のものに比較してWallace Indentation Numberとしての硬度において優る結果を示すことが記載されていることが認められる。
右の各記載事項によれば、引用例記載の発明は、歯科用ポリ(カルボキシレート)セメントを形成するに要する硬化時間を短縮すると共に、硬化後のセメントの硬度を向上させることを目的として、セメント粉末に混合して使用される硬化液にキレート化剤を添加したものであり、キレート化剤として、本願発明においても使用されるクエン酸や酒石酸を使用するものであると認められる。
3 審決は、本願発明と引用例記載の発明を対比判断するに当たり、両者は、多塩基性カルボン酸の使用量が、本願発明は総重量に占める割合で一一~一五重量%(ポリカルボン酸の重量に基づいて換算すると二〇・六~三九・二%)であるのに対し、引用例記載の発明はポリカルボン酸の重量に基づいて二〇%以下である点で相違すると認定し、右相違点について、「本願明細書特に公告時の明細書に記載された表1、表2、表3を参照し検討したが、このような範囲の添加量としたことによつて、格別顕著な効果を奏したものとは認められない」と判断している。
前記2認定事実によれば、引用例には、キレート化剤について、「ポリ(カルボン酸)の重量に基づいて約二〇重量%より多いキレート化剤を添加することは通常必要なく」と記載されているから、約二〇重量%までのキレート化剤の添加を許容しており、したがつて、審決が、多塩基性カルボン酸の配合量が、引用例記載の発明はカルボン酸の重量に基づいて二〇%以下であると認定したことに誤りはない。
しかしながら、前掲甲第二ないし第四号証によれば、本願明細書の表1ないし3には、多塩基性カルボン酸の添加量が本願発明の範囲内にある実施例1及び2(手続補正前の実施例3及び6)の硬化液を使用すると、多塩基性カルボン酸の添加しない硬化液を使用した場合(比較例1及び2)並びに酒石酸を三%添加した硬化液を使用した場合(比較例3)に比較して、歯科用セメントの硬化時間が短くて済み、得られたセメントの二四時間後の破砕抗力もはるかに優れていること、すなわち、硬化時間は、実施例が六・〇分及び六・五分であるのに対し、比較例は八・五分ないし一五・〇分である、また、二四時間後の破砕抗力は、実施例が一三三〇Kg/cm2及び一四七〇Kg/cm2であるのに対し、比較例は八五〇Kg/cm2ないし一〇九〇Kg/cm2である旨記載されていること、が認められる。
これに対し、前掲甲第五号証によれば、引用例には、本願発明で使用されるものと同じものであるクエン酸又は酒石酸を使用して得られた硬化セメントについて、その破砕抗力がどの程度のものであるかは記載されていないし、また、キレート化剤の添加が硬化後のセメントの破砕抗力の向上に寄与することを示唆する記載も存しないことが認められる。
次に、成立に争いない甲第八号証(実験報告3)には、多塩基性カルボン酸として酒石酸を添加した硬化液を使用した場合の実験結果が示されており、これによると、右添加量が本願発明の範囲内であるNo.6ないしNo.8の硬化液を使用した場合は、添加量が本願発明の範囲外であるNo.1ないしNo.5及びNo.9、No.10の硬化液を使用した場合に比較して、歯科用セメントの硬化時間が短くて済み、得られたセメントの二四時間後の破砕抗力も優れていること、すなわち、硬化時間は、本願発明の範囲内のものを使用した場合がいずれも五・五分であるのに対し、本願発明の範囲外のものを使用した場合は六・〇分ないし一二・〇分である、また、二四時間後の破砕抗力は、本願発明の範囲内のものを使用した場合が一五〇〇Kg/cm2ないし一五三〇Kg/cm2であるのに対し、本願発明の範囲外のものを使用した場合は八五〇Kg/cm2ないし一四〇〇Kg/cm2であることが認められる。
また、成立に争いない甲第九号証及び甲第一四号証(実験報告4及び5)によれば、ポリアクリル酸またはアクリル酸共重合体四五~六〇%の水溶液に多塩基性カルボン酸を添加した硬化液を使用した場合、いずれの種類の多塩基性カルボン酸においても、これを総重量に基づいて一一~一五重量%(ポリアクリル酸又はアクリル酸共重合体の重量に基づいて二〇%を越える割合)添加したとき、得られたセメントの破砕抗力が際立つて優れていることが認められる。そして、ほかに、右実験結果を左右し得る証拠はない。
この点について、被告は、右実験報告5の<5>中、酒石酸を二・五重量%及び五・〇重量%添加したものの効果は、実験報告4の<3>ないし<5>、<7>及び<10>の、本願発明のものの効果と同程度であると主張する。しかしながら、実験報告4の<3>ないし<5>、<7>及び<10>において添加されている多塩基性カルボン酸は、実験報告5の<5>において添加された酒石酸とは異なる種類のもので、多塩基性カルボン酸の添加量の差異に基づく作用効果の差異を判断するための比較例としては不適当であるから被告の右主張は理由がない。
なお、審決は、引用例の「実施例1及び2においては、硬化時間のみならず硬度に関する記載があり、その効果を認めることができることからみて、引用例記載の発明は、硬化時間の短縮のみならず機械的性質の向上をも奏するものと認められるから、本願発明のような添加量としたことによつても、そのような効果を奏するものと予測でき」るとしているが、成立に争いのない甲第一一ないし第一三号証によれば、引用例で硬化後のセメントの特性を示すために使用されている「硬度」と本願発明で使用している「破砕抗力」とが同義の技術用語でないことは明らかであり(この点は被告も争つていない。)、また、歯科用セメントについては、硬度が高くなれば、破砕抗力も大きくなるものであると認めるに足りる証拠はないから、引用例記載の発明が硬度の高いものであることから、直ちに、破砕抗力も大きくなつているとは認められない。
以上の認定事実によれば、本願発明は、歯科用セメントの硬化時間の短縮、及び得られるセメントの破砕抗力において、引用例記載の発明を含む本願発明の範囲外のものに比較して顕著な作用効果を奏すると認めるのが相当である。したがつて、本願発明が多塩基性カルボン酸の添加量を特許請求の範囲記載のものに限定したことには、十分な技術的意義があるというべきであつて、審決が、本願発明は格別顕著な効果を奏したものとは認められないと判断したのは、誤りであるといわざるを得ない。
4 以上のとおりであるから、審決は、本願発明と引用例記載の発明との相違点について認定、判断するに当たり、本願発明が多塩基性カルボン酸の添加量を特許請求の範囲記載のものに限定した技術的意義を誤認し、本願発明の奏する顕著な作用効果を看過した結果、本願発明は引用例記載の発明に基づいて当業者が容易に発明をすることができたとしたものであるから、その余の審決の取消事由について判断するまでもなく違法として、取消しを免れない。
三 よつて、審決の違法を理由にその取消しを求める原告らの本訴請求は正当としてこれを認容することとする。
〔編註〕 本願発明の要旨は左のとおりである。
ポリアクリル酸又はアクリル酸共重合体四五~六〇%の水溶液にクエン酸、リンゴ酸、マレイン酸、酒石酸、イタコン酸、アコニツト酸及びトリカルバリール酸から選ばれる一種又は二種以上の多塩基性カルボン酸を一一~一五重量%(総重量に占める割合)添加したことを特徴とする歯科用グラスアイオノマーセメント用硬化液。